皆さんは、何かを美しいと感じたのはいつからですか?
私は小さいころ、大人がなぜ夜景を綺麗と思うのかが、不思議でした。
私にとって、ただの光の集合体だったからです。
これがなぜ綺麗なんだろう?
と、当時強く思ったことを今でも覚えています。
と、当時強く思ったことを今でも覚えています。
でも、いつのころからか夜景を綺麗だと思い始めました。
写真も手伝って、今では美しいと思える領域がぐんぐん広がって、
幸せが増えた気がします。
幸せが増えた気がします。
何が言いたいかというと、
美しい、というのは経験の部分が大きくある気がしています。
美しい、というのは経験の部分が大きくある気がしています。
例えば私は春の匂いを、恋した時に初めて感じました。
楽しい時間や、優しい気持ち、
寂しかったり、迷いも、
すべてが経験にくっついているんです。
寂しかったり、迷いも、
すべてが経験にくっついているんです。
私は子供のころ、
自然いっぱいの住宅街で育ちました。
花の蜜を吸ったり、細い道を探険したり、
裏山の狭い階段を登ってみたり、
木のツルで遊んだり木の実を拾ったり、、
裏山の狭い階段を登ってみたり、
木のツルで遊んだり木の実を拾ったり、、
人工的な玩具は、遊び方が決まっていますが、
自然は、理由がなく存在しているものです。
自然は、理由がなく存在しているものです。
だからこそ決まりがなく、無限の遊び道具でした。
もう使われなくなったような道や階段も、
新しい場所へ続く冒険でした。
もう使われなくなったような道や階段も、
新しい場所へ続く冒険でした。
そういう経験が手伝って、
自然や古びた路地を見ると今でも子供の頃のように、
新しい何かと出会えるような、
自由に走り回れるような、
ワクワクした気持ちになります。
自然や古びた路地を見ると今でも子供の頃のように、
新しい何かと出会えるような、
自由に走り回れるような、
ワクワクした気持ちになります。
探険はいつまでも続く気がしたし、
いつも新しい出会いがありました。
いつも新しい出会いがありました。
ただ、大人になってくると
そういうワクワク感を、つい忘れているんです。
私たちは既知のモノや、
コントロールできる何かに囲まれて生きているからです。
そういうワクワク感を、つい忘れているんです。
私たちは既知のモノや、
コントロールできる何かに囲まれて生きているからです。
そして、自分自身までその何かの一部になっています。
そうじゃない自由な発想で、
何者にでもなれる気がした子供の頃の気持ち、
大人の自分が忘れがちな感情を、
もう一度思い出させてくれるもの、
私にとってのそれは、森や自然、
何者にでもなれる気がした子供の頃の気持ち、
大人の自分が忘れがちな感情を、
もう一度思い出させてくれるもの、
私にとってのそれは、森や自然、
そこで出会う何か、だったんです。
私が度々作品で、階段やドア、続く道を描くのは、
その先へ続く希望を表したいからです。
古びて苔むした石造りの建物を描いているのは、
何のために存在したか、
今はもうわからないくらい、自然に侵食された場所は、
積み重なった時間を感じられるからです。
気が遠くなるような時間を表現することで、
今、ここにいることの大切さを描きたいと思いました。
今、ここにいることの大切さを描きたいと思いました。
石造りの建物は、1000年以上も朽ちずに存在し続けられます。
苔むすまでの気が遠くなる時間、
いくつもの春夏秋冬を超えての「今」を作品を通じて
苔むすまでの気が遠くなる時間、
いくつもの春夏秋冬を超えての「今」を作品を通じて
表現したいと思っています。
大きな時間の中の、今
壮大な空間の中の、ここ、
その2つが交わる地点に、私たちは生きていて、
その先に希望もあることを、
作品で残したいと思っています。
壮大な空間の中の、ここ、
その2つが交わる地点に、私たちは生きていて、
その先に希望もあることを、
作品で残したいと思っています。
インスタグラムで作品公開しています☆彡
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